伍拾参 4
「どんな匂いだ?」
殿下は自分の肩に顔を寄せながらそう聞いて来た。
匂いがすると言ったので、気になったようだ・・・。
苦味や酸味、という本当のことを言うのは少々気が引けたが、それでもそう答えると、殿下はすぐに「薬湯だな」と言った。
「薬湯、ですか?」
殿下は毎日薬湯を飲んでいるそうだ。
「どこかお悪いんですか?」
「あ・・・、実は、」
心臓が悪いのだとか。
「それって息切れするってことですか?」
「ああ。 だから長時間の運動は無理なんだ」
「・・・そうなんですか」
でも・・・、心臓の薬として使うものに、そんな匂いがするものなんてあったか??
薬湯を見たいと言ったのだが、出されるのは朝晩なので今はないと言われた。
錠剤でないなら持って帰ることも出来ない。
その時、女官さんだという人がお茶を持って来てくれて、私たちは殿下の部屋に移動した。
・・・このお茶に何か入ってるかも。
つい、殿下の前に置かれたお茶をじーっと見ていた私は、それを携帯で撮ってから殿下に頼んだ。
「あの、これ味見させてもらってもいいですか?」
「・・・ああ」
怪訝そうにしながらも殿下がそう返事してくれたのをいいことに、すぐに少しだけ飲んでみたが、普通のお茶のようだった。
私に出されたものと同じだ。
まあそりゃそうよねと1人で納得してから、私は立ち上がった。
「殿下、私はこれで失礼いたします」
「ああ」
多分、なんだこの女と思っただろうが、そんなことは一向に構わない。
私は女官さんの案内で東宮殿とやらを後にした。
「絶対あの匂いよ!!」
両親と一緒に家に帰ってから、私は待ち構えていた祖父母にそう捲し立てた。
「匂いなんてしたかなあ?」
殿下の匂いに気付かなかったらしい両親は首を捻っていて、母が私に聞いて来た。
「ほんとにあの花の匂いだったの?」
「うん、間違いない」
何やら考え込んでいた祖父は、暫くしてからびっくりすることを口にした。
「殿下を弱らせて得をするのは大君殿下だな」
「え!」
声を上げたのは私だけだった。
祖母も両親も、それしかないとまで言ったのである。
「・・・謀反、ってこと?」
恐る恐るそう聞いたものの、本当は「まさかー」と言って欲しかったというのに、祖父は力強く頷いた。
「そうだ。 チェギョン、殿下をお助けするんだぞ!」
興奮している祖父は、訓育で宮に行った時にその薬湯をくすねて来いとまで口にしたのだ。
訓育って何?
「えー! お妃教育で宮に通うの!? 私が!??」
私と殿下が居ない間に大人たちで決めたそうだ。
婚礼は来年1月なので、年明け早々に私だけ入宮することになるらしい。
が、それまで週一でお妃教育なるものを受けなくてはならないのだとか。
大君殿下のお妃になるミン・ヒョリンさんという人は、王族なので既にそれなりの教育は終わっているらしく、必要ないそうだ。
で、その訓育の時に、殿下に出された薬湯を少し取って来いというのである。
・・・そんなことが出来るのか?
祖父母が帰ってから、無理だろうと思いながら自分の部屋に入ろうとした私に、追い掛けて来た兄が何かを投げて寄越した。
スポイトだった。
「それで殿下の薬湯を吸い上げて来い」
「だって近寄れないよ。 大体、やろうと思ったら殿下の前で、でしょ。 なんて言い訳するの?」
「そこは上手く言い包めろ」
えええ〜〜〜〜〜〜〜〜。
ところが、3度目の訓育の時に意外とあっさり出来たのである。
いや、“出来た”とは言わないかも・・・。
3度目の訓育が終わってから殿下との夕食の機会があり、食後、パビリオンとやらで殿下に挨拶していた時、女官さんが薬湯を持って来たのだ。
思わず、忘れ物しちゃった!と声を上げてその女官さんに突進したことで、薬湯は派手に私の服に零れた。
「あっ、申し訳ありません!」
「いえ、私がぶつかってしまったんです。 すみません、お姉さんっ」
慌てている女官さんとお互い謝り合って、すぐに着替えをという女官さんに、大丈夫ですからと言いながら、私はそそくさとパビリオンを出た。
薬湯で濡れた服のまま。
「よくやった!」
父が喜び兄が早速成分分析にかかって、やはりというか、微量の毒が検出されたのである。
が、ほんの微量なので、すぐに心臓が止まるとかではないらしい。
「よくこの匂いが判ったなあ」
兄が変に感心している。
小さい頃は、「臭い」とあちこちで言ったせいで同級生や兄に怒られたりしたものだが、そんなことは都合よく忘れているらしい。
「このこと、殿下に言う方がいいよね?」
「そうだな、せめてこれ以上飲ませないようにしないと」
兄はそう言いながら、私にファイルを見せた。
「それにこの結果を書いている。 あの花のこともな」
それこそ上手く言い包めろと兄は言ったが、その言い包め方を教えてよ!!
「俺は男だし殿下に会ったこともないから無理だ。 お前は女だし大丈夫さ」
どういう意味よっ。
「だが気を付けろ。 薬湯に入れられているってことは、宮の医者や薬剤師、いや、侍医とか薬師だっけ? とにかく彼らも怪しいってことだ」
「え・・・・・」
「つまり悪の手先。 謀反の片棒を担いでいるのさ」
謀反の片棒・・・・・。
自分がそんなことに関わってしまったと実感して、すごく怖くなった。
が、“殿下をお助けする”という使命に浸り切っている祖父に早く早くと急かされ、次の訓育の日、殿下付きのコン内官さんに、殿下と2人で話をしたいと頼んだ。
するとすぐにそれが叶って、訓育の場である雲硯宮に殿下が来てくれたのだ。
お菓子を持って。
「お菓子だっ」
ついそれに気を取られたものの、はっと気付いて、私は薬湯の話をしてファイルを見せた。
「これは・・・」
「すみません、勝手にこんなことをして。 でも殿下のことが心配なんです」
心からの言葉だったというのに、殿下はおかしなことを言った。
「皇太子妃ではなくなるかもしれないからか?」
「は?」