伍拾参 3
我が国の皇太子殿下からは、◯◯という花の匂いがする。
あの可愛い花は口に入ると命に関わるので、触れたのならすぐに手を洗わなければならない。
なのに学校に居ても匂いがするのはおかしいと思うのだが。
「それほんと? チェギョン」
「うん。 あれは薬にはならないから、飲み薬に入ってるはずないわ」
私とガンヒョンが視線を向けているのは、この国のイ・シン皇太子殿下だ。
私の家は代々医者の家系で、祖父も父も叔父も医者だ。
3歳上の兄も医学部に通っている。
私もそのつもりで勉強しているのだが、祖母が漢方とか薬草に詳しくて、色々話を聞くうちに興味が湧いて来た私は、高校生になった頃からそちらの勉強も始めている。
そのせいかどうか、2年の秋頃から何となく殿下の様子が気になって来た。
元々と言えば悪いが殿下は色が黒いので、普段は顔色などよく判らない。
が、一度廊下であの花の匂いがしたのだ。
あれ?と思って前を見ると、殿下が友人らしき男子生徒と歩いていたのである。
「でもほんとに殿下の匂いなの? 隣のファンじゃないの?」
「ううん、違う。 確認したもの」
もしかしたら一緒に居た男子生徒かもと思って、そのリュ・ファン君が1人の時に後ろから付いて行ってみたのだが、彼からはあの匂いはしなかった。
念のためにイ・ユル大君殿下も確認したが、彼からもそんな匂いはしなかったのだ。
「殿下だけが何かを飲まされてるんじゃないかな? それも、ごく微量のすぐに効き目が出ない、多分毒性のもの」
「! ちょっ・・・、もっと小さい声で・・・っ」
殿下や大君たちと再従兄弟に当たるガンヒョンが慌てている。
周りには判らないくらいのほんの少しの匂いなので、信じられないのも判る。
実際、証拠があるわけではないし、私もはっきりした確信があるわけでもない。
だが、殿下のあの匂いは確かにあの花だ。
触れたのならすぐに丁寧に手を洗うはずで、なのに学校に居ても匂うなんて。
皇太子だから、そういうことに備えて免疫を付ける為のものだというならそれでいいのだが。
そう言うとガンヒョンは、大昔じゃあるまいしと手を横に振った。
やっぱりね。
私よりそういうことに詳しい祖母を此処に連れて来て、殿下の近くに行かせたいくらいだ。
「ガンヒョン、殿下の再従兄弟なんでしょ? 身体を鍛えるように言ってあげて。 軟弱だったら余計にマズイから」
私はこの時はまだ、殿下が心臓が悪いのなんのということは知らなかったのだが、細くて如何にも弱そうなので、ついガンヒョンにそう言ってしまったのだ。
ガンヒョンが目を見張ったことには気付かなかった。
匂いのことは絶対に秘密よ!と続けると、ガンヒョンは何も言わずに首を縦に振った。
それからもやはり殿下の匂いは消えない。
擦れ違う時とか匂うのだ。
なんといっても我が国の皇太子なので、私としては非常に気になる。
ある日私は、漢方のことを祖母に聞きたくて祖父母の家に行った。
「そんな匂いのする子が居るの?」
「うん。 私の勘違いならいいんだけど」
「チェギョンは鼻が効くからねえ。 匂いが染み付くなんて気になるけど、手くらいきちんと洗ってるんじゃないの」
・・・洗ってるとは思うが。
「それとも、服に花粉が付いてただけでしょ」
その匂いの人物が皇太子だとは言えなかったので、祖母はそれで話を終わらせた。
殿下が気になりながらも、倒れたとかいう話は聞かないし、学校でも普通にリュ・ファン君と話してるし、やはり私の気のせいかなあと思い始めていた。
これでも日々の勉強もあるし、学校の宿題もある。
そういつまでも殿下のことばかり考えていられないのだ。
ガンヒョンにも、気のせいだったって言って!と言われたこともあり、その方がいいよねと思いながら1年が経った。
ある日、下校すると祖父母が来ていた。
お客さんが来ていたらしい。
「チェギョン、此処に座りなさい」
真面目な顔の祖父に言われて、着替えも出来ずにリビングのソファーに座ると、思いもしないことを言われたのだ。
「お前は殿下の許婚だ」
「・・・・・え????」
昔、戦争中に医者として派遣されていた祖父が先帝陛下を助けたことでえらく気に入られて、その後友人関係になったらしい。
「先帝陛下と友人!???」
びっくりだ。
そして、お互いの子供は男だけだったので「孫を結婚させたい!」と先帝が、祖父に言わせれば駄々を捏ねるように言い張ったのだとか。
駄々を捏ねるって・・・・・。
「民間人だからと言っても聞かなくてなあ。 その頃には身分など関係なくなる!とか言って」
「・・・・・」
結果、その許婚の話を受け入れざるを得なかったらしい。
それが私と殿下なのだとか。
で、今日のお客さんというのが宮からのお使いの人だったそうだ。
が、先帝が亡くなられていることもあり、祖父は本当に宮から話が来るとは思っていなかったそうだ。
宮から連絡が来てびっくりした、らしい。
「それでなあ、殿下は快諾されました、などと言われたらこちらから断れると思うか? 昔人間の儂には無理だった」
いや、そこ胸張って言うことか??
孫の気持ちも聞いてからと一旦帰ってもらったそうだが、そういうことになってるのならと、去年からずっと思っていた殿下の匂いのことを祖父母と両親に言うと、皆驚いていた。
が、祖父は何故か「運命だ!」と騒いだのだ。
もし本当に良からぬものを飲まされているのなら、先帝のお導きだというのである。
「儂と同様にチェギョンも殿下を助けることになるということだ。運命だな!」
「そうかもしれないわっ。 じゃあ、以前言ってた匂いのする子って殿下だったのね」
祖母は憶えていたらしく、すぐに祖父の言葉に乗った。
「チェギョン、お前も医者の娘だ。 殿下をお助けするんだぞ」
「頑張ってね、チェギョン」
両親までもがそう言って、その後すぐに祖父は宮に返事をしたのである。
「謹んでお受けいたします」と。
私の気持ちは聞いてくれないのかと思ったが、もう口を挟める状況ではなかった。
「運命ね」
次の日、殿下とのことを既に知っていたガンヒョンは、私にそう言った。
祖父の回し者かと思ったほどだ。
「あんたがシンを守ってあげて。 お願いチェギョン」
民間人の私が皇太子殿下を守る?
普通は逆だろう。
そしてとうとう家族で参内する日が来た。
緊張しながら皇太后さまたちにご挨拶した後、私は殿下の案内で彼の住まいである東宮殿に向かった。
前を歩く殿下からは、やはりあの花の匂いがする。
何故?
今出て来た部屋にあの花はなかったし、この廊下にも置かれていない。
花粉がつくはずもないのだ。
東宮殿の部屋で殿下が足を止めて、此処が君の部屋だと言った。
が、それよりも匂いが気になる私は、殿下に言ってしまったのだ。
「あなた少し、漢方というか、薬草の匂いがします」
花の匂いだと言うと続きを聞いてもらえない気がしたから、漢方とか薬草という言葉を使ったのだが、殿下は眼を丸くしただけだった。