伍拾参 1
「シン、大丈夫?」
「ああ。 ユル、済まないがコン内官を呼んで来てくれるか?」
「判った」
夏休みに離宮に来て、馬に乗ってユルと遠出したのはいいのだが、息切れが激しくなってしまい、これ以上馬に乗っていられなくなったのだ。
俺もユルも携帯を置いて来てしまっていたので、連絡方法がなく、ユルが馬で戻ってくれることになった。
ユルが遠ざかるのを見ながら、俺は自分の弱さに溜息が出た。
皇太子だというのにこれでは・・・。
俺とユルは同い年の従兄弟同士だ。
ユルの父親のス殿下が亡くなっていなければ、ユルが皇太子のはずだった。
俺の父の現皇帝ヒョンは、ス殿下の弟なのだから。
俺とユルが5歳の時、当時皇太子だったユルの父ス殿下が事故で亡くなった。
その時、当時皇帝だった祖父が、5歳のユルに皇太子は無理だと、大君だった父を皇太子にしたのである。
そのことで、ス殿下の妻ソ・ファヨンさまは惠政宮という称号になったのだが、何故かユルとともにイギリスに行ってしまったのだ。
それから3年後、今度は皇帝だった祖父ウンが病死して父が皇帝に即位し、その時に俺も皇太子になったのである。
8歳だった。
だが俺は身体が弱い。
小学生の頃はそうでもなかったのだが、中学生になってから走ると息切れするようになり、時には倒れてしまうこともあった。
侍医には、殿下は心臓がお悪いようだと言われた。
父も持病の目眩があり、その侍医の言葉に驚いた祖母が、俺たちが高校に上がる前に惠政宮さまとユルを帰国させたのだ。
戻って来た時、伯母は恵政宮から惠政殿となり、ユルは義誠大君となったのだが、その伯母は俺に言った。
『ユルは大君にとお願いしたの。 今更ユルを皇太子にしようとは思っていないから安心してね、太子』
その言葉で俺は、この人はイギリスに行ったことを後悔しているのではと思ってしまったのだ。
何故そう感じたのかは判らないが。
「あそこです、コン内官!」
ユルの声に顔を上げると、コン内官が車から降りるところだった。
「殿下、大丈夫ですか!?」
慌てて走って来るコン内官と、同じように馬から降りてこちらに駆け寄って来るユルを見ながら、身体が弱い俺ではいつまでも皇太子など務まらないだろうし、早いうちにユルと交代するべきかなと改めて思っていた。
俺とユルは王立高校3年だ。
クラスは違うが当然よく会うし会えば話をする。
ユルには友人が多く、周りには常に誰かしらが居て、ユルと笑い合っている。
カン王族のインとチャン航空の御曹司ギョンとは親友だそうだ。
俺にも、親友と言っていいと思っている友人は居る。
リュ王族のファンだ。
俺の身体が弱いことは公にはされていないのだが、当然というか王族たちは皆知っていて、だからというかユルほどは俺の周りに人は集まらない。
「皆、そのうちユルが皇太子になると思ってるんだろうな」
人に言われる前に自分からそう言うと、ファンは怒った。
「他人に言われたくないからって自分で言うのはおかしいよ、シン。 イマドキの医療を信じろ」
後ろ向きにばかり考えてしまう俺だが、そうやって否定してもらえると少しほっとするというか嬉しいというか・・・。
「皇太子として10年も頑張って来たシンを、神様は見てくれてる。 大丈夫、病気くらい吹き飛ばせるよ」
「・・・ありがとう、ファン」
彼と友人で良かったとつくづく思った。
その年の秋、父が執務室で意識を失った。
幸いすぐに気が付き、事なきを得たのだが、どうやら不安になったらしい祖母が、俺とユルの結婚をと言い始めたのだ。
「2人はまだ高校生です」
俺とユルが何も言わずに様子を窺う中、母と伯母の惠政殿が声を揃えたが、祖母は譲らなかった。
「実は先帝が決めた許婚が居るのだ」
その言葉に、俺とユルは顔を見合わせた。
祖父の勅書が残されているらしい。
だがその許婚は民間人なので皇太子妃にはどうかと思うのか、祖母は、その許婚はユルの妃にと口にしたのである。
「そうですか。 ユルは大君ですから民間人でもいいというわけですね」
伯母の言葉には明らかに棘があった。
俺もだがユルも居心地が悪そうだ。
「・・・そういうわけではないぞ、惠政殿。 実は許婚の方にはまだ話は行っていないのだ」
先帝の勅書にはお互いの気持ちは尊重すると書かれているし、それこそまだ高校生なので、宮からはあちらの家に連絡ひとつしていないらしい。
「ならばユルの妃は王族の娘でお願いいたします。 実は好きな王族の女の子が居るようなのです」
え! そうなのか??
思わずユルを見ると、彼は視線をあちこちに彷徨わせていた。
・・・もしかして伯母の嘘か??
だが、それならばと祖母が折れて、民間人の許婚は俺の相手ということになった。
「構わぬか? 太子」
「はい。 先帝陛下の勅書です。 有り難く受け入れます」
「そうか」
祖母はほっとしたように口元を綻ばせた。
母は何も言わないが、もしかしたら気に入らないかもしれない。
伯母はにこやかに微笑んでいるし、ユルは俺にちらっと視線を向けただけだ。
顔も名前も知らない許婚だが、俺に断れるわけがない。
それに、病弱な俺はゆくゆくは皇太子を降りることになるだろうから、妃は民間人でもいいのだ。
「これが許婚の写真だ。 王立高校の同級生じゃぞ」
その写真の女の子は笑顔が可愛く、名前はシン・チェギョンといった。
シン・チェギョンのファイルを手に東宮殿に戻る俺を、ユルが追い掛けて来た。
「いいのか、シン」
「ああ。 それより好きな子が居るってほんとなのか?」
「あー、いや、実は・・・」
好きな子ではなく、伯母が既に、ユルの妃候補を数人決めているのだとか。
つまりユルも、碌に知らない女性と結婚することになるのか。
「王族でないと!って言って、3年になってすぐから動いてた」
「そうなのか」
祖母の前でのことは、伯母のパフォーマンスだったわけか。
「僕も母には逆らえないんだ」
「そうだな」
お互い、自分の意見はそう通らないことは判っているのだ。
「皇族って、良いのか悪いのか判らないね」
ユルはそう言うと、俺に手を振って離れて行った。
その後、自分の部屋に入った俺は、再び許婚のファイルを開いた。
せめて可愛くて良かったと思う。
「内面も良い子ならいいけど」
つい、そう呟いていた。